これはタロットカードの「正義」を表しています。
正義のリヴァースは「不義」
しかし、「正しいこと」はどんな価値観から生まれるのでしょうか?
問題を解決しない?見つめれば見つめるほど遠のく。
正義の反対語を検索しますと「また別の正義」と出てきます。
これにはなるほどなあと思いました。
人の価値観は100人いたら100通り。
そうすると「問題」ということにしている価値観も100通りとなりますね。
自分の中でいままであった排除的思考はここ半年、様々なことを経験し
この排除的思考であれば真の問題は解決しないかもという思いがわいてきました。
そこで、今回はこの「排除的思考」について
でくのぼう的に考えてみました。
そもそも「問題」って?
自分のこの部分を治せたらなあ。
お金の管理ができない。
お酒がやめられない。
甘いものがやめられない。
まあ、自分の人格の中の否定形な部分ですね。
だれもがあるかと思います。
また、環境という人間関係をみるとこの排除論、結構存在しています。
いじめ
社会的弱者に対してや、
生産性がないもの(ようは使えない人)
ようは「邪魔な人」という発想を思い起こす人ですね。
「問題」とはある目的を阻害するもの(ひと)ということになりますが、
この「ある目的」とはを考えると排除的思考をすることは「問題」から離れていることに近頃感じてきました。
楽しくしていれば結果はついてくる。
私の中でこの言葉はいまだ「きれいごと」です。
そもそも「楽しい」という概念は「楽しくない」ということをごまかしている。
「楽しい」という気持ちが最初から来るのはおかしいし、結果としての気持ち
だからそこを考えないほうがいいと感じる。
結局この言葉も問題を解決しようとする思考から離れていません。
~したいという発想が問題を遠ざける。
~したいという発想はそもそも問題を解決しようとしているわけで
その発想自体が問題から遠ざかっています。
きれいになりたい。
お金持ちになりたい。
友達がたくさんほしい。
本気でそう思うなら、いったんこの問題を考えないようにする。
自分の問題を排除せずに抱え込んでしまう。
そして、今したほうがいいいことに丁寧に専念していたら結果として
問題は解決していることが多いです。
社会的問題にたいしても
いじめ問題を直視するよりも
調和社会にむけてとりくんでいたほうが結果としていじめ問題は減る。
この考え方のほうがいいって皆さん、うすうす気が付いていると思うのです。
しかし、そうできない社会がある。圧力や癒着など。
いじめ問題をとりあげていたほうがなにかとお金になるのかもしれません。
問題を直視して解決したほうが日々充実していると思う方もいるかと思います。
問題を解決したいという思いはどこから生まれているのか?
なにもない毎日を充実したいから問題解決にとりくむ。
しかし、直視すればするほどその「問題」を排除しようとしているわけですから
人間関係にも亀裂がでてきます。その「問題」をOKと思っている人を排除しようと
しているわけですから。
問題を解決しようという気持ちを排除しない
言っていること、矛盾しているじゃないか!という人もいるかもしれません。
結局、矛盾するんです。
文字でおこせば。
文字で起こしていること事体、
読んでいる人に取って現実とは離れたところにいるわけです。
まとめ